“僕が死のうと思ったのは”

私が死にたいと思いだしたのはいつからだろうか。

5歳くらいの頃、ここから飛び降りてやる!!と思ったのは覚えている。

でも、確かな確信を持って、生きていたくない、と思い始めたのは高校生の時だったと思う。

そこから少しずつ少しずつその思いに絡め取られていくように、

そこから思えば10年ほど、私は生きることをやめたいと思っては苦しくて、それはもう息をするのも苦しくて、もがいてきた。

それでも生きているのは紛れもなく、生きていたいと思ったから。私は私の意志で、今日も生きることを選んでいる。

「この10年はあっという間だったなあ」なんてことは全然ない。苦しかった。辛かった。楽しいこともあったけど、その何倍も悲しいことがたくさんあった。

でもようやく今、人生でおそらく一番、生きていてもいいやと思っている。

死にたいとノートに書き殴っていた私が、「人生捨てたもんじゃない」と思うようになっている。なんなら、この人生をくれてありがとう、生まれ変わっても私になりたい、とすら思っている。

まったく10年前の私に見せてあげたい。

 

特に今年に入ってからはいいことしか起こっていない。一番の転機は恋人に別れようと言われたことで、このお陰で自分を大切にすることができるようになった気がする。こんな私を最後まで大切にしてくれた元恋人には本当に感謝してもしきれない。

自分を大切にすると、世界の解釈が180度変わるのだと気付かされた。結局この世は偶然の産物で、それにどんな意味を与えるのかはその人間次第だ。私の場合は、恋人に別れを告げられたことが人生最大の幸運だと感じている。

 

人生の体感時間は、20歳を過ぎた時点で7割終わっているらしい。そうすると私には3割弱しか人生が残されていないわけなので、もう余生だ。

そもそも人類の生きる目的は種の存続だ。この世の一人ひとりが、生まれ落ちた時点で人類を一世代長く存続させたという実績を解除してしている。ということは人生は、はなから余生なのだ。

余生をどう生きようと、そしてどう死のうと自由だが、「では死のうか」とならないのは人間がそうプログラムされているからだ。

死にたいと思って苦しむのは、生きたいと思うようにプログラムされているからに過ぎない。

 

その簡単なことに気付くのに、10年かかった。それに気付けるのはおそらく、自分が人類最大の目的である「生まれる」という実績を解除しており、これ以上解除する実績は残されていないと気付いている人なんだと思う。

 

自分を大切にするには長く険しい訓練が必要で、私もこの点においては非常に未熟だが、毎日毎日、この世で一番憎い自分を虐めたい衝動と戦って、大切に大切に扱って、自分に感覚を叩き込まないとプログラムのバグは直せないらしい。

 

自分はもうすぐこの世から消えると信じていた10年前の自分に教えてあげたい。いろんな人に出会って、少しずつ過去の感情が書き換えられていくよと。自分を大切にするのは難しいけど、死にたいと書き殴りながら必死に生きようとした10年があったおかげで、今少しずつ自分を大切にしているよと。

 

中島美嘉 - 僕が死のうと思ったのは / THE FIRST TAKE - YouTube

上咽頭炎と呑気症と自律神経

ここ1週間、体がだるくてだるくて、夕方には目が開かないくらい眠いし、たくさん寝ても朝は疲れているし(それはいつものことだが)

日中もずーっと軽く吐き気がして仕事どころではなかった。

 

2ヶ月に一回くらい、こういう症状に見舞われる。そして症状が始まってから3日くらい経つと、あることに気付く。

あ、これ、呑気症だわ、と。

 

気付いてからは、意識的に大量のゲップをすることで吐き気は治る。身体のだるさも、2週間ほど経てば次第に治まる。

 

こんなことをかれこれ10年ほど繰り返してきた。そして今回も同じように自発的ゲップで吐き気を抑えることができている。

 

だが、それに加えて今回はもう一つのことに気づいた。それは呑気症の原因、なんで大量の空気を飲み込んでしまうかということだ。

 

私の場合、唾や痰が大量に出るときは決まって呑気症になる。その唾や痰は、ストレスや噛み締めによって出るんだと今までは思っていた。

 

でもつい先日、自律神経失調症の隠れた原因は上咽頭炎にあるというYouTubeの動画を見ており、そこで上咽頭炎の見分けかたについて

「気泡をたくさん含んだ白い痰が出る人は上咽頭炎の可能性が高い」

と言っていたのを思い出し、これだ!と思った。

 

私が呑気症になるとき、出てくる唾や痰には大量の気泡が入っている。これを何回も飲み込むことで、胃が空気でパンパンになるのだ。

さらに、呑気症でない時でも年がら年中白い痰が出る。

 

つまり私は慢性的な上咽頭炎で、それが長年の自律神経失調症を引き起こしており、さらに上咽頭炎が悪化した時に呑気症になるのではないか?

 

そんな仮説を思い付いたら居てもたってもいられず、Amazonで長い綿棒を購入。

これを鼻から突っ込み上咽頭をツンツンして、痛みがあったり出血したら上咽頭炎だということらしい。(セルフBスポット)

 

いざ、恐る恐る綿棒を鼻に挿入。え、こんなに深く刺しちゃって大丈夫か?と不安になりながら長い綿棒をかなり奥まで突っ込みツンツン。あ〜そこ効いてるわ〜という部位に当たって染みる。

 

そしてビビりながら綿棒をそっと引っこ抜き綿棒の先端を見ると、赤い血が!やはり私は上咽頭炎だったんだ!!!

 

長年の自律神経失調症とおさらば出来ると思うと嬉しくて泣きそうである。もう一生毎日体調が悪いまま生きていくのかと思ったよ・・・。

 

というわけで、これからは上咽頭炎を治すべく邁進していきたいと思います。鼻うがいグッズも買いました。なた豆茶も飲もうと思います。コロナが落ち着いたら耳鼻科にも通いたい。

 

それでは。

振られるのが怖いという話

恋人から返信がない。

全然ない。

 

4年付き合った彼氏との関係には、たまに「もう潮時かな」なんて思ったりする。私は大好きだけど、こちらが一方的に好きなだけなんじゃないのかなと思ったりもする。

でも、好きなものは好きなのだ。「自分を大切にしてくれる人を見つけよう」なんてクソ喰らえだ。一方的だろうが、私がこの人を好きなのだから。

 

そう思って4年間付き合ってきた。そのうち2年間は遠距離恋愛だった。遠距離で一方通行の恋愛を続けるのはしんどいこともたくさんあった。でも、好きなのだ。

 

においが好き。背中が好き。ふわふわの癖毛も、背がちょっと低いところも。すごく変わり者なところも、自分を持っているところも。

4年間一緒にいて、私に未来をたくさん見せてくれた。ずっと消えたかった私に、どん底だった私に、この人と生きていたいと思わせてくれた。恩人なのだ。

 

捨てられたくない。どんなに惨めでも一緒にいてほしい。終わりが来ることは分かっているけど、最後の時を先延ばしにしてほしい。

私が相手に依存して、求めすぎているのは分かっているのだ。自分の幸せを他人に委ねるべきではないことも。

でも、私のそれまでの人生では考えられなかったほどの幸せをくれたから、そんなのは無理。世界で一番好きな人なのだ。諦められない。

 

…3日既読無視されただけでこれである。これが世に言うメンヘラか。

 

これまでも1週間くらい連絡を取らなかったことは度々ある。今回ここまで過剰に反応しているのは、私がちょっと調子に乗って相手に求めすぎたなという自覚があるからなわけだが、それにしたって既読無視はやめてほしい。

 

もう夜も眠れないし、寝ても途中で目が覚めるし、仕事中も息が苦しい。とにかく捨てられることが怖くて仕方ない。捨てられてから立ち直るまでの苦しい日々が来るのが今から恐ろしい。そんな苦しい思いしたくない。

 

私はきちんとお付き合いした人が彼しかいないので、恋人との別れが未知の世界なのだが、みんなほんとにこんな恐ろしいことを繰り返して生きているのだろうが。信じられない。みんな凄すぎる。

 

でも、もし彼と別れたとしても、いつかは思い出になってしまうんだろう。そして、それは辛い思い出にはならないと分かる。すごく幸せな思い出になる。

だから怖い。幸せだったなあ、なんて思いたくない。

捨てないで。

 

返事の来ない彼とのLINEに、「どうしたの」とまた送ってしまった。

思い出したくない

昨晩、夜11時ごろ。

久々に早く布団に入れた私はスヤスヤ寝ていたのだが、誰かからの着信で起こされた。

母親だった。

「もう寝てるの!?はや!」などと言いつつ他愛もない話をする母。それを寝ぼけながらフンフンと聞いていた。

 

電話が終わり、さて寝るかと目を閉じたところで心臓が早鐘のように脈打っていることに気づいて、「ああ、寝てる時に急に電話きたらビビるよな」などと考えたりした。

 

ドキドキがなかなかおさまらず、なんでわざわざ電話かけてきたんだろう、とか、電話するなら日中にしてくれればいいのに、とか少しずつ母親に苛立ち始める。

でも、ここで苛立ってしまうと一気に目が冴えてしまう事を知っているので、努めて考えないようにした。

 

母親のことは今は考えないように、苛立たないように…次第にデジャヴを体験しているような感覚になってくる。

この感覚、前にも体験したことがある。なんだか分からないけど、思い出したくないことを思い出しそうだ。

 

既視感のような感覚はどんどん強くなっていく。呼吸が荒くなってくる。思い出したくない。思い出したくない。思い出したくない。

 

私の中の別人格の私が嫌な記憶を再体験している。そうだ、私はこの子と統合したいんだ。今までこの子に背負わせてきた悲しみを、私が引き受けなきゃいけないんだ。今思い出さなきゃ。

でも怖い。嫌だ。思い出したくない。思い出したくない。思い出したくない。

いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや

 

気付いたら、私はいつものように大声で嗚咽を上げて泣いていた。

でも、いつものように「誰かが泣いているのを見ている」という感じではなかった。

明確に、私自身が過去の嫌な記憶から逃げたという自覚があった。

 

いつも別人格の小さい私に「もう背負わなくていいよ」と言っているのに。あたかもこの子が統合を嫌がっているかのように振る舞っているのに。

 

結局怖がっているのは私で、また今回も逃げてしまった。幼稚園かそこらの小さい子に全て丸投げして、拒絶して逃げてきてしまった。

 

あぁ、あの子は私のことを嫌いになったかも。やっぱり統合なんか無理だった、と思っているかも。

正直に言えば私自身、今回のことで統合なんて無理だと再確認してしまった。

 

内在性解離 その後

病院に二度行った

 

治療を試してもらったけど、結局統合は出来なかった

 

ここに治療に来ているあなた自身が過去を受け入れられるようになれば、統合できる。全てはあなた次第だから、と言われたけど、

私には今の私がどの私なのか分からないので困った。

 

私は過去を受け入れる覚悟ができていないみたい。それはなんとなくわかっていた。

でもこの苦しさから少しでも解放されるには、統合した方がいいのかも、と安易に考えていた。

 

実際は順序が逆だったようだ。

 

 

ところで治療中は話しかけてもあんまり答えてくれない私の解離した人格たちだが、私が意識し始めたからなのか出てくることが多くなった。

 

先日、私が胃が痛すぎてウンウン唸っているときに出てきてくれて、そうすると痛みが嘘のように消える。

彼女は喃語のようなことをずっと喋っていた。

 

過去の嫌な記憶を背負わせている上に、現在の体の不調まで引き受けてもらって本当に申し訳なかったな。次からは気をつけよう。

 

 

そして、とにかく恋人に会いたくて会いたくて仕方なくなってしまう。

恋人の前では、大人の私と解離した幼い私がかなり混ざり合って、すごく落ち着いた感じになる。

最近遠距離で会えていないから、彼にものすごく会いたいらしい。うん、分かる。私も会いたいよ。

彼に会いたいと思っているときは、現在の私と幼い私が混ざり合って「会いたいなあ」という意見が一致しているのがよく分かる。

 

 

そしてもう一つ、母親に関しては意見が一致していないようで

私は大人になって離れて暮らすようになってから母親とは仲が良いし、たまに会うのは全然楽しいと思ってたんだけど、

今日、母親と会ってきて家に帰ったら大泣きされてしまった。

こんなこと今までなかったんだけど、今までも母親と会うたびにこんなに大泣きするほど嫌な思いをしてたんだろうか

申し訳ないことをしたなあ。

 

とにかくいまだかつてないほどギャン泣きするのでびっくりしてしまった。

彼女が大泣きしている間、私は彼女の激しい嗚咽を聞きながら

「ヒックヒック言いすぎて逆に笑ってるみたいに聞こえるなあ」などと思っていて、その引き笑いみたいな泣き方が少し怖かった。

こんなふうに泣いたのは、小学生低学年以来だと思う。

 

意思の疎通は出来ないけど、彼女達?の考えていることが少しずつ表面化してきている気がする。

これは良い方向に進んでいるんだろうか

 

 

とにかく、お医者さんにかかって治療してもらって「ハイ、統合」とはいかないことがわかったので

これからも苦しむしかないみたい。

 

希望が消えてしまったようで悲しいけど、はやく過去の嫌な記憶を受け入れられるくらい強くなって、彼女たちを解放してあげたい。

 

 

ちなみに、全然疑ってたわけではないけど、内在性解離の治療はホンモノだったと思う

膝をトントンされて「過去の嫌な記憶を引き受けてくれた〇〇ちゃん」、と呼びかけられたら

私への反応はなかったけど呼吸がすごく荒くなって、嗚咽みたいなのが始まったので。

 

ただ、私自身の集中力が無さすぎて、膝のトントンがなくなると彼女達に語りかけることに集中出来ず、

診察室の外から聞こえてくる音とかが気になってしまった。

 

あ、あと気付いたことを数点。

まず、私は自分のことを結構根性あって無理が効くタイプだと勘違いしてたけど、それは私が根性あるんじゃなくて、解離した人格に辛さを横流ししてただけだということに気付いた。

自分が処理しきれない辛さを我慢するのはやめよう。

 

そして、内在性解離の治療は頭の中の人格に呼びかけるスタイルだけど、私の場合解離した人格と頭の中でコミュニケーション出来たことは一度もなくて、

いつも彼女たちが気まぐれで体を使ってる時は、私は頭の中だけにいるような感じで

治療スタイルとはポジショニングが逆というか。

なので多分彼女たちとコミュニケーション取るには、私が頭の中に引っ込んで、彼女たちが私の口を使って言葉を話す、っていうスタイルにしないとダメなんだろうな。

でもそれをお医者さんの前でやるのはちょっと恥ずかしい。。。

 

 

以上備忘録です。

内在性解離 備忘録

内在性解離かもと思って病院に行ってから、なんと一年が経ってしまいました。

1年間ほぼ毎日、治療を受けようか悩みましたが

悩んでても仕方ないことに気付いたのでお医者さんに今度質問してこようと思います。多分。

その時のためのメモを残しておきます。

 

ところで最近解離性同一性障害の方の動画がバズっててたまたま観たのですが、どの人格も全員ちゃんとお名前が付いていて

一方で私は全員自分と同じ名前が付いている感覚があるので、私の場合はただの思い込み?振れ幅の激しい人なだけなのでは?という思いもあります。(もしそうなら病院行くの恥ずかしいなと)

 

あと、体が疲れて固くなっているときはちっちゃい子が出てきやすいようで、余力があればちょっと柔軟をすると自然と引っ込む気がします。

逆に体がカチコチだと声が聞こえるくらいハッキリ感じるようになったりするようです。(スマホを見ていると「や!や!」と言われた。だが暇なので見てしまう…すまんな)

 

ただ、私の意思で表に出てきてもらうと体の痛みとかだるさが軽くなる気がします。(「私」の痛みが軽くなった分、その子が辛くなっているのかは不明)

今日初めて意図的に出てきてもらおうと試みたのですが、戻れなくなりそうでちょっと怖かったです。

 

以下メモ

 

【懸念点】

完全に会えなくなったら寂しい
治療のダウンタイムは?その間自分をコントロールできるのか、働けるのか
発達障害が根本原因のものも多い気がするので、治療する意味あるのか?
本当に何人もいるのか?自分の妄想なのでは?本当にいたとして、戻れなくなりかけたことあるので、治療によって存在を顕在化させて大丈夫なのか?
統合のことを考えると体調がめちゃくちゃ悪くなる めまい吐き気息苦しさ


【困ってること】

悲しくなることが日に何度もある それに伴う体調不良
一日中何もできなくなる(したくなくなる)日がある 週1,2
不眠がち
嫌なことを何度も思い出す、いろんなバリエーション、些細な出来事に関連付けて思い出す、いつまでも消えずに蓄積されるばかり。
情緒不安定。動悸、不安、人混みが急に無理になったり。何かしていても急にできなくなる(特に休みの日)
ひとりでしゃべってしまう(嫌なことを思い出したときに起こる?無意識で、公共の場だとすごく怪しい人)
街中で突然一瞬だけタイムトリップ?する(なんとなくぼーっと歩いてるときとか)
自分に統一性がない、あとから恥、気づいたら別のことやってる(これは発達障害のせい)、統一性がないので物事が進まない
悲しいことにいつまでも一人で耐えている様子がかわいそうで申し訳ない、もしトラウマ的なことがあるなら思い出してあげたい
このまま現状維持は多分無理 体力的に限界来そう、また発達障害でただでさえ同時にいろんなことを考えているので脳が追いつかない
 

お金と時間、どっちの方が大切?

先週、職場のミーティングで親睦の一環としてこんな話題が出た。

 

「お金と時間、大切なのはどちらか?」

 

私は当然時間の方が大切だと思い、大多数の人もそう答えるだろうと思っていた。

しかし結果は、「お金の方が大切」と答えた人が過半数だった。

これには大変驚いた。

 

どうしたらお金の方が時間より大切だという結論になるのか?

何故かこの顔が頭から離れず、その日一日考えてしまった。

 

 

まず大前提として、時間とお金を比較するのはおかしい話だ。

時間はこの世の始まりと共にあったものだし、一方でお金は人間が便宜的に作り出した「物の価値の単位」だ。

物々交換をよりしやすくするための画期的な概念なわけで、この概念がなくなればお金はただの紙切れになる。

 

 

この時点で既に私からすればなぜお金の方が大事だという発想になるのかが理解し難いのだが、さらにこの二つを比較することを考えてみる。

 

条件を揃えて比較したいので、仮に私が今からAとBに分裂するとしよう。

私Aと私Bは全くの同一人物で、これからAは全てのお金を失い、Bは全てのお金を失う。

 

Aは無一文だが、お金がなくても散歩に出て、風を感じることはできる。家にあるテレビなんかを食料と交換してもいい。時間はあるのだから、働いたっていい。

お金は物々交換する際の便利な媒介だが、時間はそれ自体に価値があるのだから、媒介がなくたって時間を使って好きなことをしたらいいのだ。

 

一方でBは一切の時間を失った。散歩に出ることはおろか、紙幣で鼻をかむことさえできない。預金通帳を確認しようにも、時間が無いのだからそれも叶わない。

 

時間を失えば、どんなにお金を持っていたって何もできない。お金だけではない。時間がなければ、所有するあらゆるものを、どうすることもできない。

 

限られた人生の中で、時間は一番大切なものだとすら思う。だって人生は時間そのものなのだから。

 

 

やはりここまで来ても、なぜお金の方が大切だと思う人が存在するのかが分からない。彼らはこう思っているのだろうか?

「時間はいくらでもある、でもお金は有限だ!そんな現実味のない比較をするな」と。

 

だが、時間を大切にする方がよっぽど現実的だと思うのだ。

 

だって、所持金が完全に0になることって現実世界であるだろうか?破産したって0円にはならない。自動販売機の下を覗いたら100円くらい集まりそうなものだ。

 

でも、時間が0になるというのは生き物の真理だ。いつか人は死ぬ。どんな人でもいつか所持時間は0になる。だからこそ時間は大切なのだとも言える。

 

資産を使い切らずに死んでいく人はたくさんいるだろうが、死なない人は今のところいない。

 

お金というものはものすごく大切で、ものすごく便利だ。お金がなければ身を守れないことだってたくさんある。

でも、時間より大切にするのは本末転倒なのではないかと思うのだ。

 

彼らは貧乏な暮らしをするくらいなら死んだ方がマシだ!と思っているのだろうか。それならいくらか納得がいく。自給自足生活でもしていない限り、お金がないことと暮らしが貧しいことはイコールだ。

 

世間の人々は私が思うよりずっと、裕福であることに重きを置いているのかもしれない。それこそ命よりも大切にするほどに。

謎は深まるばかりだ。