Oura ringのバッテリー寿命が短くなったから神対応で交換してもらった

11ヶ月ほど使ったOura ringのバッテリー寿命が、2日ほど前からとんでもなく短くなってしまった。

一晩も保たないので睡眠データも取れない。

毎日毎日超愛用してるのに…!!と悲しみに暮れながら色々ググってみたところ、どうやらサクッと交換してくれるらしかったので、実際にOuraに問い合わせてみました。

 

  • 手順1

OuraアプリのHelp > Contact Us を選択。

 

  • 手順2

Request Typeは"I'm having an issue with the product"を選択。

 

  • 手順3

Tell us what's upにて以下を記載。(私は英語版アプリを使ってますが、まぁ日本語でも大体同じかと)

My ring’s battery life suddenly dropped to a few hours.

#SO-xxxxxxxx

Name: 

Shipping address: 

Phone: 
Email: 
Ring: Oura Gen3 Heritage Silver Size 6 

#SOは、リング注文時のメールに書いてある8桁ほどの数字。

Shipping addressには現住所。

Ringには、自分のリングのモデルや色、サイズを記載しました。

 

 

すると、10分後には一次返信があり、30分後には新しいリングの注文を受け付けたと連絡が。

そして5時間後にはリングを発送しましたとのこと。

 

はやい・・・!!はやすぎる・・・・!!!!

 

ありがとうOura。

しかも、古いリングはお友達とか家族にあげちゃっていいよ、とのこと。なので母親にあげようかと思います(バッテリーすぐなくなるけど)。

 

Oura神対応すぎてますます好きになりました。

この記事が誰かのお役に立てたら幸いです。

なぜ「美しい」と言うことは許されるのか?

とあるインフルエンサーさんが、「実は体重が10キロ増えた。心ない言葉をかけられることもある。」という投稿をされているのを見た。

「太っている、痩せている」といった言葉に傷ついた人たちに対して、温かいメッセージを残されていた。

 

そもそも、彼女は容姿でお仕事をされている方ではない。とても社会的意義のある活動をされている方だ。

そんな彼女の投稿のコメント欄に、「あなたはあなたのままで美しいですよ」などといった言葉が溢れていることに、とてつもない違和感を覚えた。

そしてルッキズムと多様性について、気になって気になって仕方なくなってしまっている。

 

まず、彼女は体重が10キロ増えた。体重が増えることを日本語では「太る」というはずで、そこには客観的な意味合いしかないはずだ。

「痩せる」も同様に、体重が減ることを痩せると言うわけで、本来それ以上の意味はなかったはずだ。

それなのに、今や「太る」「痩せる」という言葉に主観的な意味を感じとる人が大多数なようで、さらに厄介なことに、どんな主観的意味を感じるかは人それぞれだ。

「太ったね」と言われて「太ってかわいくなったね」と捉える人もいれば、「太ってかわいくなくなったね」と捉える人ももちろんいる。

 

客観的事実を表す言葉だったものに対して、どんな意味を感じ取るかが定まらない文化圏では、もはやそんな言葉は使わない方が安全だ、とするのは分かる。

 

太った・痩せた、白・黒・黄、大きい・小さいなどなど、身体的特徴を客観的に表す言葉はリスクが高いとして、使わない風潮になってきている。

 

が、しかし。

「美しい」をガンガン使うのはなんでだ??

美しいかどうかは完全な主観的意見だし、「美しい」という言葉に何を想像するかは人によって当然異なる。「太った」よりも多様な受け取り方があるのは明白だ。

「美しい」と言われて嬉しい人もいれば悲しい人も当然いる。誰かに「美しいね」と言われても、その人の意味すら「美しい」が私の考える「醜い」と一致している可能性だって十分あり得る。

 

いや、醜くたっていいのだ。美しくても醜くてもどうでもいいのだ。

一番腹が立つのは、「あなたが太っていても痩せていても、肌が白くても黒くても、あなたはそのままで美しいのです」と知った口を聞かれることだ。

お前の意見は知らん!!!!!!!なんでお前が美の称号を与える立場なんだよ???!!??!

だったら数字的根拠のある客観的事実を述べられた方がマシだ。

 

それは、「美しい」を欲しすぎて心身が傷ついてしまった人への一時的な治療になるかもしれないが、よりルッキズムを加速させている気がしてならない。

そもそも客観的事実に対して主観的価値観を押し付けることで、ルッキズムが悪化したんじゃないのか。なんで美しさを絶対的な善のように扱うのか?

 

美しいことが悪いのではなく、美しいことが好きなことが悪いのでもない。美しいことが正しいかのような誤解を、さも多様性尊重しますみたいな顔で押し付けてくるのが理解できないのだ。

 

しまいには、「人は外見ではなく内面の美しさで判断しましょう」ときたもんだ。

そもそも外見も内面も、ほとんどが自分のコントロール外の要素で成り立っているはずだ。仮に「優しい」ことが「美しい」のであれば、「優しい」かどうかその人自身に選択権がどれほどあるだろうか。

そしてその「優しさ」は、人によって全く異なる。優しさの形も、受け取り方も、千差万別だ。そしてそれを美しいとするかどうかも、個人の価値観でしかない。

 

それをな〜〜〜にがインナービューティーだぁ?!!?いや、インナーがビューティーなのはいい。何度も言うが「美しい」ことは悪じゃない。「美しくない」ことが悪かのような言い方が腹立つのだ。

 

本当にそういう人たちはどこまで行っても中身のない言葉に踊らされるのだと、いっそ同情する。

 

外見も内面も、100人いれば100人それぞれの事情で今の形に落ち着いている。それを軽々しく、あなたの個人的な価値観で「美しい」だとか「優しい」だとか言わないでいただきたい!!!!と、とても思うのだ。

聖なる性

アリシア・キースの名曲 Holy Warに、こんな歌詞がある。

"What if sex was holy and war was obscene. And it wasn't twisted, what a wonderful dream."

 

きっと大人になったら多くの人が思うとおもうのだが、セックスって生命の神秘って感じがする。ほとんど全員が、セックスによってこの世に生を受けるのだから。

職場の同僚が妊娠報告をしてきたら、「おめでとう!」とみんなが言う。もちろんみんな、どうやって妊娠したかは大体分かっている。

宗教にもよるのかもしれないが、「妊娠したってことは、セックスしたってことよね?なんていやらしいのかしら」とは誰も言わない。

みんな、セックスが神聖なことは知っているのだ。

 

でも、どうしてここまで「イケナイコト」として扱われるのだろう?子供たちからはなるべく隠して、お茶の間でも話題にしないようにする。

多くの子どもたちは、イケナイコト、気まずいこと、大人だけが覗ける隠された世界だと思っているんじゃないかな。

 

私も、今でこそ映画のワンシーンで感動的なセックスが出てくると泣いたりするが、子供の頃は「キャッッ!エッチだ!!」としか思わなかった。そして友達と学校でひそひそ話したりして。

 

人間が今も生き残っているということは、種を存続させる意思が強いということだ。だから、性欲がある程度強いのは当たり前のことだ。進化の過程で得たそのプリミティブで強烈な衝動を、脳が発達する前の子どもたちに扱いきれないのはよく分かる。

脳の発達は25歳まで続くというし、そのくらいの年齢まではみんな性的な衝動に振り回されるかもしれない。

 

だからそれまではひた隠しておくのか?理性的な生殖行為と、犯罪になりかねない暴力的な行為を一緒くたにして?

本来、性的な魅力を感じることと種の存続は、生物として同義だったはずだ。それが今は性的な魅力を「感じる」こと、「感じさせる」ことを禁じるのにやっきになっている。そして身体の一部は公衆の面前に晒すことすら許されない。服を着て生まれてくるわけではないのに、服を着ることを前提とした歪な生き物だ。

 

もちろんルール作りは大切だが、性を全て封じることはできない。どんなに汚らわしいと遠ざけても、人類が滅びる最後の時まで確実にセックスは神聖であり続ける。

 

繁殖と社会性を両立しなければいけない、猿ではなくなった人間の抱える、大きなジレンマだと思う。

 

 

 

私は自分が思いたいことを思っている

アバンダンスプログラムなるものをやってみた。

22日間で「豊かさ」を手に入れられる、というもので、やってみるとなかなか面白い。

実際は毎日できず、結局22回のプログラムを終えるのに1ヶ月以上かかってしまったわけだが、それでも効果はあった気がする。

 

そのプログラムを終えて思ったのが、「人間は思いたいと思うことを思い、感じたいと思うことを感じるのではないか」ということ。

我々は脳みそに支配されているわけだが、往々にして脳みそというのはコントロールが効かない。全然感じたくない感情を感じたり、見なくていいものを見たり(私の場合ホラー映画とか)、言いたくないことを口走ったりする。

ADHDである私なんかは本当に自分の脳みその大暴走に困り果ててきたわけだが、たまにこう思うこともある。

 

「あ〜今悲しくなりたい。もうどん底まで悲しくなって惨めでみすぼらしくて生きる意味を失いたい〜」とか。

 

不安の発作起こりかけの時なんか、大体こんな感じ。

「やばいやばいこのままだとめちゃくちゃ苦しくなる、止めなきゃ止めなきゃ、でも止めたくない楽になりたくない。苦しみたい。苦しんで惨めになりたい気がする。。。」とか思っているうちに体が動かなくなる。

一種の自傷行為みたいなもんだ。

 

別の例として、私は最近失恋したわけだが、「もう辛いから元彼のことなんか思い出したくない!!」と思ってなるべく思い出が目に入らないようにする。

でも全然思い出す。息を吸うようにしょっちゅう思い出す。

この原因は明白で、私が本当は元彼を忘れたくないから。まだ好きだからだ。

もし明日、私の理想を詰め込んだような人に出会って全身全霊でゾッコンになったとしたら、全然思い出さなくなること間違いない。そもそも思い出しても辛くもならないし。

私は自分の意志で、思い出したい!と思って思い出しているに過ぎない。そして、自分の意志で辛くなっている。(それが失恋含めた恋愛の醍醐味でもあるし)

 

それと同様に、楽しいと思いたい時には楽しめるが、いつも楽しいと持っているものが全くもって楽しくない時もある。

あれ?おかしいな?とか思うわけだが、よく考えたらそもそも楽しいなんて感情全然欲してない。胸に手を当ててよーーく考えてみないと分からないが、そういう時は大抵悲しくて苦しくて仕方ないのだ。

 

つまり何が言いたいのかというと、私たちはいつも自分の感情や思考を無意識に選択している・・・ような気がする。

自分の脳みそのことが全然コントロールできない!この分からずや!!と今までずっと嘆いていたが、分からず屋のトンチキ野郎は私だったのだ。私は私のことを何一つ理解せず、はちゃめちゃな願望を口から出任せで喋っていたが、脳みその方は私が望んだプランを忠実に再現していたにすぎない。。。のかも知れない。

 

我々は、自分で思っているよりもずっと高尚な生き物で、自然界に住んでいる生き物たちがこの世のルールを忠実に体現して生きているように、人間だって宇宙の一部として生きている。

ごちゃごちゃ考えるのもまた楽しいが、自分は常に望みたいものを知っており、それを望んだ瞬間に実現できることを知っておいた方がよさそうだ。

愛着障害

最近、ようやく自分の愛着障害について目を向けようかという気になっている。

 

今まで発達障害に始まり、解離、パーソナリティ障害、自傷、不安障害などなど自分に当てはまる症状や特徴を並べてスポット的に対処しようとしてきた。(ちなみに私は発達障害の特性があると診断されているが、WAISの結果は全項目平均以上で偏りも大きくない)

 

だが、自分でもうっすら気づいていた。本質は自分の育ちにあり、症状の方をどうにかしようとするには限界があると。

 

というか、私はこれまでの人生かなりの労力をかけて自分に出ている"症状"の方をなんとかしてきた。その結果、そこそこ以上に普通に生活ができている。

つまり、私自身が苦しいこと以外、特段日常生活で困るような症状はない。

 

私がやってきた工夫についていつかどこかで詳しく書きたいと思っているが、母親に問題があることに勘付いた時からそれこそ20年ほど、自分をとりまく困難について試行錯誤を重ねてきた。

あとはもう全ての元凶である愛着についてなんとかするしかない気がするのだ。

 

とは言ってもこの愛着の方も、4年間付き合ってくれた元恋人によって大分安定した。本当に恩人である。

 

私が「生きててもいい」と思えるまであともう少しのような気がする!気がするのだが、愛着障害というのは自分一人でどうにかできるものじゃないらしい。そこで詰んでいる。

 

私は自分一人で自分をどうにかしたいのだ。誰かに頼りたくない。ましてや親に頼んで治療してもらうなどもっての外だ。どうしたらいいんだ。

 

これからもっと勉強して模索していくしかない。

 

 

↓最近読んだ本です

 

 



 

 

 

親を愛せないのは

週末実家に帰った。

両親は帰るたびにとても良くしてくれる。両親との仲はかなり良好だと思う。

それでも、実家に帰ると否応なしに悲しかったことをたくさん思い出す。愛されていることは明白なのに、常に心のどこかで親を恨んでいる。

 

毎日ご飯を食べさせてくれて、教育を受けさせてくれて、何不自由なく育ててくれた。こんなに恵まれた親のもとに生まれたのに、産んでくれなくてよかったとさえ思っていることにずっと罪悪感を感じていた。

 

もちろん今でも感じているけど、でも今回の帰省でなんとなく割り切れたかもしれない。

私はこの人のことを多分生涯恨む。私にした数々のことを一生覚えているし許さない。

そして同時に、私はこの人に感謝しているし、ずっと健康でいてほしいと思う。

別にどっちかを選ぶ必要はなくて、両方同時に感じうることなんだなと思ったりした。

 

 

追記

今回は色々割り切れた帰省だったと思ったけど、自宅に帰ってから大泣きされてしまい、「もう帰らないで」とも言われてしまった(多分)。

やはりかなり負担をかけていたみたい。申し訳ない。

「自分のことを考えすぎ」と言ってくる人

心を病む人は、自分に興味がありすぎるんだよ。

自己肯定感が低い人は、自分にばっかり矢印が向いている。

もっと他人に興味を持って他人のために行動すれば、おのずと自分のことも好きになるはず。

 

こういうことを言う人がいますよね。めちゃくちゃたくさんいますよね。

 

そういう人は、きっと自分に関心を持たなくてもいい程度には自分のことを好きなんでしょうね。

 

個人的には、一番身近な自分自身のことをめちゃくちゃ嫌いなのに、他の人に関心を向けるっていうのはかなり難しいと思います。

例えば顔面に三日間洗ってない靴下を貼り付けた状態で、「あの人はとっても素敵な香りがするなあ」とはならんやろ、と思うのです。まずこのくっさい靴下が気になるやろ、という。

 

この世で一番消えてほしい人間が自分自身だった場合、どんなに他人で意識を逸らそうとしても結局は自分のことが気になってしまう。当たり前のことだと思います。

 

だから、自己肯定感が低い人に対して「自分のこと好きすぎるんだよ」とか言ってくるような人の言葉は真に受けなくていいのです。

 

一番の解決方法は恐らく、「自分のことが気にならなくなるくらい自分を愛す」以外にないと思うから。

 

「自分なんか…」という思考が湧いてきたら、ああ自分をきちんと愛せていないんだなと思うことにしています。そしてその感情が消えるまで、まずは自分を愛す努力をします。

自分を大っ嫌いな状態で誰かを大切にしようとすると、結局自分も相手も傷付けることになるので。

「あいつなんか…」という思考が湧いてきたときも同様。

 

 

「あなたは自分のこと好きすぎなんだよ〜」とか言ってくる輩は、そんなこと言えるくらい自分のことが好きなのでほっときましょう。という話。