なぜ「美しい」と言うことは許されるのか?

とあるインフルエンサーさんが、「実は体重が10キロ増えた。心ない言葉をかけられることもある。」という投稿をされているのを見た。

「太っている、痩せている」といった言葉に傷ついた人たちに対して、温かいメッセージを残されていた。

 

そもそも、彼女は容姿でお仕事をされている方ではない。とても社会的意義のある活動をされている方だ。

そんな彼女の投稿のコメント欄に、「あなたはあなたのままで美しいですよ」などといった言葉が溢れていることに、とてつもない違和感を覚えた。

そしてルッキズムと多様性について、気になって気になって仕方なくなってしまっている。

 

まず、彼女は体重が10キロ増えた。体重が増えることを日本語では「太る」というはずで、そこには客観的な意味合いしかないはずだ。

「痩せる」も同様に、体重が減ることを痩せると言うわけで、本来それ以上の意味はなかったはずだ。

それなのに、今や「太る」「痩せる」という言葉に主観的な意味を感じとる人が大多数なようで、さらに厄介なことに、どんな主観的意味を感じるかは人それぞれだ。

「太ったね」と言われて「太ってかわいくなったね」と捉える人もいれば、「太ってかわいくなくなったね」と捉える人ももちろんいる。

 

客観的事実を表す言葉だったものに対して、どんな意味を感じ取るかが定まらない文化圏では、もはやそんな言葉は使わない方が安全だ、とするのは分かる。

 

太った・痩せた、白・黒・黄、大きい・小さいなどなど、身体的特徴を客観的に表す言葉はリスクが高いとして、使わない風潮になってきている。

 

が、しかし。

「美しい」をガンガン使うのはなんでだ??

美しいかどうかは完全な主観的意見だし、「美しい」という言葉に何を想像するかは人によって当然異なる。「太った」よりも多様な受け取り方があるのは明白だ。

「美しい」と言われて嬉しい人もいれば悲しい人も当然いる。誰かに「美しいね」と言われても、その人の意味すら「美しい」が私の考える「醜い」と一致している可能性だって十分あり得る。

 

いや、醜くたっていいのだ。美しくても醜くてもどうでもいいのだ。

一番腹が立つのは、「あなたが太っていても痩せていても、肌が白くても黒くても、あなたはそのままで美しいのです」と知った口を聞かれることだ。

お前の意見は知らん!!!!!!!なんでお前が美の称号を与える立場なんだよ???!!??!

だったら数字的根拠のある客観的事実を述べられた方がマシだ。

 

それは、「美しい」を欲しすぎて心身が傷ついてしまった人への一時的な治療になるかもしれないが、よりルッキズムを加速させている気がしてならない。

そもそも客観的事実に対して主観的価値観を押し付けることで、ルッキズムが悪化したんじゃないのか。なんで美しさを絶対的な善のように扱うのか?

 

美しいことが悪いのではなく、美しいことが好きなことが悪いのでもない。美しいことが正しいかのような誤解を、さも多様性尊重しますみたいな顔で押し付けてくるのが理解できないのだ。

 

しまいには、「人は外見ではなく内面の美しさで判断しましょう」ときたもんだ。

そもそも外見も内面も、ほとんどが自分のコントロール外の要素で成り立っているはずだ。仮に「優しい」ことが「美しい」のであれば、「優しい」かどうかその人自身に選択権がどれほどあるだろうか。

そしてその「優しさ」は、人によって全く異なる。優しさの形も、受け取り方も、千差万別だ。そしてそれを美しいとするかどうかも、個人の価値観でしかない。

 

それをな〜〜〜にがインナービューティーだぁ?!!?いや、インナーがビューティーなのはいい。何度も言うが「美しい」ことは悪じゃない。「美しくない」ことが悪かのような言い方が腹立つのだ。

 

本当にそういう人たちはどこまで行っても中身のない言葉に踊らされるのだと、いっそ同情する。

 

外見も内面も、100人いれば100人それぞれの事情で今の形に落ち着いている。それを軽々しく、あなたの個人的な価値観で「美しい」だとか「優しい」だとか言わないでいただきたい!!!!と、とても思うのだ。