私は多くの日本人と同じように、特に何の宗教も信じていない。
でも、10年間キリスト教の学校に通って聖書の勉強をしたり、毎日礼拝をしたりしたことはある。
その10年間の集大成として、「キリスト教とはソリが合わないなあ」と思ったりする。(でも聖書から引用してタトゥー入れたりしている)
日本で育っているからなのか、まずキリスト教の神様が「あれしちゃだめ、これしちゃだめ」と制限をかけてくることに驚く。
しかも、たまに「自分のために動物を殺して捧げてほしい」と言ってくる。これには衝撃を受けた。
神道的影響がどうかはしらないが、「動物=自然界=神様っぽい神聖なもの」というイメージの私にとっては、無駄な殺生はしたらあかん!という感覚になったのかもしれない。
また、お金はただ持ってるだけじゃなく、投資しないとダメだ、という実用的アドバイスまでしている。私にとって、お金に口出してくる神様は前代未聞である。
その他、全体的に「それは無理あるだろ〜」という例え話が散らばっていて、最後には自分の息子を人間たちのために殺した、と言ってくる。
えぇ…。なぜ…。
幼心に不思議に思った私は、中学校最後の聖書のテストの質問欄に、「なぜ神様は人間を赦し、その罰を肩代わりさせるためにイエス様を死なせたのですか」と書いた。
3年間の集大成のテストだというのに、こんなに肝心な質問を今更してくるとは、とんでもない生徒である。
しかしそこは牧師さん。たくさんの答案を採点しなければいけないだろうに、丁寧に回答してくれた。
それを要約すると、「人間が罪を犯したから、その罰を代わりにイエス様に受けさせることによって、人間を赦してくださったんですよ」ということがわかりやすく書かれていた。
これを見て、私は永遠にこの謎を理解し得ないんだと悟った。
たぶん、キリスト教徒やその文化で育った人には逆になぜ理解できないのか理解できないと思うが、これが文化の違いというやつなのだと、中学生の私ははじめて感じたのだった。
そして、この「!?」という感覚は、キリスト教圏の人たちと関わるときにすごく役に立っている。
根本的には理解し得ないのだが、コミュニケーションで生じる違和感と、「!?」の感覚が一緒だ!とわかりさえすれば、予測が可能になる。
そして、たとえキリスト教徒でなくても、キリスト教圏出身の人には深くその考えが根付いているんだなあと実感する。
キリスト教ばかり例に挙げているが、それぞれの地域や宗教によって、人は様々に変化する。日本は島国だし、特にいろんな宗教から自分たちの気に入ったところだけを取ってごちゃ混ぜにしている自由気ままさは、全然理解不能に違いない。
ここで個人的に肝心だと思うのが、「あいつらはなんでみんなこんな性格なんだ!」と反発したり、逆に深く理解しようとしたりするのは無駄ということ。
きちんと研究しないと理解は難しいと思うし、仮に理解できたとしてもその文化で育たない限り、同じ考え方にはなり得ないと思う。
それこそ何万年もかけて作られた相手の根本的な考え方を全て理解しようとするより、自分と相手は圧倒的に違うということを念頭においてコミュニケーションを取る方が重要な気がする。
とは言え、「自分の宗教以外を受け入れるという価値観をはじめから排除している」というタイプの宗教も多い。
そしてそれをきちんと実行している人だと、話がさらにややこしくなる。
宗教は本当に難しいし、それを作り出す人間とはつくづく不思議な生き物だなあと思う。